人はいつになったら大人になれるのか―『劇画・オバQ』藤子・F・不二雄
『劇画・オバQ』は『オバケのQ太郎』の後日談だ。社会人になった主人公、正ちゃんのもとにオバケのQ太郎がやってくるところから始まる。
オバケの一生は500年。地球の1/5のスピードで歳を取るらしく、Q太郎はいまだに子ども時代の振る舞いをする。夜遅くまで思い出話をしたり、あそこに行こう、と思いつきで行動している。
しかし、正ちゃんはすでに社会人。昼までずっと寝ていることはできないし、平日暇だから空き地に遊びにいくようなこともできない。寂しい思いをするQ太郎。
そして、物語の最後で正ちゃんに子どもができたことを妻から告げられる。
子どもができたら大人なのか
『劇画・オバQ』の終わりとしてはとても良いと思うが、果たして子どもができたら大人と言えるのだろうか。
なんとなく生きていたら大人になれるだろうと思っていたが、人はいつになったら大人になれるのか、あまりきちんと考えたことがなかった。
いわゆる大人というのは大きく分けて2つある。
まず1つは社会的な大人。全くしゃべったこともないような他人から「こいつは大人だ」と認められるのは18歳や20歳だ。ある年齢を堺に大人になったと判断される。こちらは法律のような決まりで定められるものなので、あまり議論の余地がない。
もう1つ、精神的な成熟を指して、「大人になった」 と言うことがある。こちらは何をもって「成熟」というのかという部分で解釈の幅が広い。たとえば、自分で生計を立てている人。つまりお金の面で親に頼っていない人が大人だという考え方。これも1つあるだろう。僕の定義は、他人のこともある程度自分のこととして捉えられるようになったとき、大人だと言えるのではないかと考えている。
つまり、「社会的な大人」には年齢という明確な区切りはあるが、「精神的な大人」には明確な区切りはない。
もしかしたら、10歳で大人と呼べるような振る舞いをする人もいるかもしれないし、30歳になってもまだまだ子どもかもしれない。その時々の環境によって出てくる部分も違うだろう。大人と子どもは1人の人間に混在していて、あくまで割合の話なのだ。
年齢的には「大人」に分類されるような年齢になっているにもかかわらず、精神的には子供の状態にとどまったままの人を英語では「kidult キダルト」という
などと言う言葉ができたということは、最近はより大人と子どもの境界が曖昧になっているのだろう。
20歳を越えたから、子どもが生まれたから、といって安心していると、いつの間にか自分の子どもに世話をしてもらわなければならない子どものままで一生を過ごすことになってしまうかもしれない。
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