『バーナード嬢曰く。』に読書好きの痛いトコ突かれたが心地いい
いやー、愉快。
「読書好き」を笑って打ちのめす、読書をテーマにしたギャグマンガ『バーナード嬢曰く。』がとてもおもしろかった。施川ユウキさんの作品はあまり読んだことがなく、唯一読んだのは『オンノジ』。NAVERまとめでどこの馬の骨が言っているのかわからないおすすめを信じて購入してみたものの、僕には合わなかった。決して質的に劣っているという話ではなく、NAVERまとめでおすすめしていた人は熱心にすすめていたので、あくまで相性が悪かったということなのだと思う。
『バーナード嬢曰く。』の何が面白いのかというと、本を読むのが好きな人たちの「あるある」を描いているところ。読書をしている人はカッコいいと思って本を手にするも読んだふりだけするヒロイン(この言い方が正しいかわからない)、ヒロインが図書館にいるからというだけで図書室を訪れるストーカーのような男の子、ストーカーのような男の子を図書委員という名目で観察しているストーカーのストーカー…。こんなヘンな人たちが「読書家」たちの間でよく起きる出来事を扱っているので、本好きには皮肉を言われているような気になりつつも、あっはっはと笑ってしまうようなシーンに溢れている。
たとえば冒頭。
図書室の端っこで 彼女はいつも 1人で本を読んでいる。
一見かなりの読書家に見えるが 僕は知っている。
彼女が本を読むのは誰かが見ているときだけだ。
いやー痛いとこ突かれましたわ。今となっては人に見られているかどうかなんて全く気にしなくなったものの、中学生、高校生ぐらいのときは意識していたと思う。いわゆる名門校に通っていたわけではないので周りにちゃんと本を読んでいる人はいなくて、そんな中で「みんなと違うことしてる自分カッケー」と内心思っていた。ほんと恥ずかしい。反省してます。
いまではこの「本読んでる自分カッケー」現象はむしろ逆転してしまった。『バーナード嬢曰く。』にも引用されているショウペンハウエルの言葉がしっくり来ているので引用する。
読書は他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎないショウペンハウエル『読書について』
読書というのは他人の思考をなぞることで、自分で考えようと意識していないと考えた気になって終わってしまう。このことは身を持って実感している。家の本棚に詰まっている読破した名著の数々がいまの自分にどれだけ血肉になっているだろうか。正直言ってわからない。
『バーナード嬢曰く。』で描いていることは極端ではあっても、自分の読書に対する姿勢を見直すいいキッカケになるかもしれない。
名著を買って本棚に並べたとき、この表紙に似たこと思いませんでした?
ようやく「センス」関連のコンテンツ始めます
「センスを磨くマンガブログ」なんて仰々しいタイトルをつけておきながら、センスのかけらもない記事ばかり書いてすみませんでした。めんどくさかったんです。
新連載始めます
さすがにそろそろタイトル通りのコンテンツがないと、唯一いる3人ぐらいの読者に訴えられそうなので連載を始めます。その名も「センスのつくり方」。とりあえず始めた段階なので途中でピボットする可能性大、大、大です。
この連載のメインは身の回りにあるセンスのいいモノやサービスの分析です。僕自身がセンスを磨くため、3人ぐらいいる心優しい読者の方々にも新しい視点を得られるようにいろいろと観察します。
連載予定例
・「オトナ」という甘美な響き
・シェアボタンはどうあるべきか
・役割に最適化されたペンケース
などなど...
みなさんにとっておもしろいかどうかは謎ですが、僕が読んでおもしろいと思えるネタを扱いたいと思います。
次回予告
「『オトナ』という甘美な響き」
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『カルト村で生まれました』の「普通」に思わずあの言葉を叫びたくなる
とても興味深いマンガを読みました。
『カルト村で生まれました』高田かや
ほのぼのした絵のタッチと、「カルト村」というワードのミスマッチ感。これだけで僕は惹かれて買ってしまいました。この作品はタイトルの通り一般人からすると「カルト村だ」とされるような閉鎖的な村で19歳まで暮らしていた女性が自身の体験を綴ったマンガです。
思わずツッコみたくなる「普通」の数々
作中で紹介される独特のルールは村の外の人からすると「異常」とも言えるようなものばかり。たとえばこんなシーン。
村の理想とする社会は所有のない社会。だからすべての物は基本的に共有しているという。いま流行りの「シェアリングエコノミー」を徹底しているわけですね。
また、村では1日2食しか食べられないという。
だからお腹が好きすぎて甘い薬をおやつとして食べていた、なんてことも。
いまの時代こんなことやっているのか、と衝撃を受けたのが手紙の検閲。ここで暮らしている人にとっては普通かもしれないけれど、戦時中か、とツッコみたくなります。
これらの様子を眺めていると、自分にとっての普通があくまで所属する社会の「普通」であって、全世界共通の普遍的なルールではないということに初めて気づく。異文化に触れないとこんな気づきは得られない。こうした自分の根底となる部分がぐらぐら揺れる体験は恐怖を呼び起こすこともあれば、視野が広がる開拓者のような楽しさもある。
「明日からカルト村で生活しろ」と命じられて20を越えた成人が急に訪れたら、きっとそれまでの「普通」と差によるとてつもない違和感で死んでしまうかもしれない。しかしあくまで作品として「こういう場所もあるんだよ」と紹介される分には単に好奇の対象となるだけ。
「普通」はコンテンツになりやすい
自分にとっての「普通」が他の人にとっては「普通」ではない、というように新しいアイデアを考えなくてもおもしろいのだから「普通」はコンテンツになりやすく、たくさん世の中に出回っている。
この種のコンテンツは、異なる「普通」を紹介するパターンと異なる「普通」からの視点で消費者の「普通」を見るパターンがある。『カルト村で生まれました』は前者で、後者はたとえば最近だと「厚切りジェイソン」のネタなんてわかりやすい例になる。
ジェイソン:
「最後のから揚げ」というネタだと、
「今日は飲み会、うれしいね!
最後のから揚げ、食べれるよ!」
「Why!?」
「外国人だから!」
糸井:
最後のから揚げ(笑)。
1個残った場合のね。
ジェイソン:
「食べればいいのに。
みんな、食べたいと
思っているのに、手が出ない。
Why!? おかしいよ!」
日本人を外からみると、こうした行動は思わず「Why !?」と言いたくなる。というか日本人も違和感を感じているだろうけどね。
『カルト村で生まれました』の読者はあくまで村の「普通」を外から見る側。1日2食しか食べられない、「むかつく」と言った子どもの髪の毛を掴んで壁に打ち付ける、なんて話を聞いて思わず声高に叫びたくなる。
「Why カルト ピーポー !?」
宙ぶらりんの日々(あとがきのようなもの)
朝起きた瞬間に「遅刻だ!」と飛び起きてからの実は休日だった安心感に勝る安心感に出会うことはなかなかありません。
「Evernote」より「Day One 2」を勧める理由
最近の若者は物欲がなくて、消費志向が弱い、なんてことを聞く。確かに僕も高い時計なんて全く欲しくないし、車もいらない、洋服は好きだからちょっと欲しいというぐらい。たぶん「バブル世代」の人たちからしたら、けしからんと卑下される対象なんだと思う。でもしょうがないじゃない、人間だもの。「こうあるべき」なんて言われても全部受け入れられません、僕は。
時計や車を欲しがらない代わりに、求めるようになったことがある。それは「デザイン」だ。デザインには「意匠デザイン(見た目)」と「機能デザイン」があるなんていう少し専門的な話もあるけれど、そんなに深く考えなくていい。キレイだと思うモノをより強く求めるようになった。それはMacかもしれないし、文房具かもしれないし、あるいは実態のないソフトかもしれない。
どんなものでも便利な機能はたくさんあったほうがいいように思えるけど、実は必ずしもそうではない。日本の製品は分厚い説明書が必要な機能過多の製品を作って失敗してきたというのがアプリやソフトの世界にも言える。用途が決まっている場合は逆に機能が制限されているぐらいの方が構造がシンプルになって心地よいのだ。
僕は高校生くらいから自分が考えたことや、ふと思い浮かんだアイデアを記録する方法を探ってきた。あるときはシステム手帳。またあるときは「Evernote」と「Postever」という投稿専門のアプリを併用していた。使っているデバイスにも依存するけれど、いまは一旦「ほぼ日手帳」と「DayOne2」というアプリに落ち着いた。
ガジェット通の方々には「Evernoteのほうがいろいろ便利じゃん!」と言われてしまうかもしれないが、「Evernote」は僕にとって機能過多だ。確かにあらゆる情報を毎日毎日記録して、構造的に整理しなければならないという需要がある場合は「Evernote」が優れている。
でも、毎日考えたことをメモしたり、撮った写真を記録してたまに見返すぐらいだったら圧倒的に「DayOne 2」をおすすめする。
「Day One 2」を勧める理由1 : 見た目がキレイ
理由は2つある。まず1つは見た目がとてもキレイだということ。毎日触れるアプリの見た目がダサいとそれだけで何かを書く気が失せる。見た目が整っていないアプリはたいてい使う人の行動に沿った構造になっていないことが多いから使いづらさも伴う。「Evernote」もアップデートしてだいぶキレイな見た目にはなったけれど、搭載されている機能がいくぶん多いため、ごちゃごちゃしてしまっている。
「Day One 2」を勧める理由1 : 使いやすく機能が整理されている
2つめも見た目に関係するが、機能の構造の話だ。「Day One」から「Day One 2」にバージョンアップして、画面の下部にメニューが常時表示されるようになった。これが特に良い。使ったことのない人にとっては大した差ではないと感じるかもしれないけれど、どの画面にいてもすぐにメモを投稿できるし、逆にどの画面にいてもすぐに閲覧画面に移れるようになったのはとても大きい。
投稿した画像だけを並べて見られる機能は「Day One」時代からあったが、下部にメニューとして常時表示されるようになったことで価値がとても上がったと思う。イメージとしては自分だけのInstagram。公開したいわけではないけれど何かしら保存しておきたい画像をここにためておけば、にやにやしながら好きな世界に浸れる。
たとえばこんな感じ。
人に見られたくない写真もこの通り。
ひゅー、たまらないぜ!
自分が「いい!」と思った写真や画像をためておき、すぐに見れる。いいね。まだ僕は活用できてないけれど、マップビュー(右から2つめ)というものもあって投稿した場所、あるいは画像の位置情報を元に投稿が地図上にマッピングされるという機能もある。旅行に行った時にどこで何を書いたのか振り返りやすいですね。
アプリにお金を払う習慣がない人にとっては高いだろうけど、どこでも無限に使えるノートないし手帳を買ったと思えばそう高くない。3月の時点で(購入したのは2月)「今年イチバンの買い物」と言ってしまうのはせっかちな気がするけれど、少なくともベスト3には入る。
もちろんこういうのは好みが大きく分かれますが、「Evernote」に不満がある人は試してみることをおすすめします。
宙ぶらりんの日々(あとがきのようなもの)
風邪だかインフルエンザでしばらくマスクを着けていると、治ったときに不思議な気持ちになる。あれ、口って人に見せていいんだっけ、って。
人はささいなことで決断する
僕は子どもの頃から1人でいることにほとんど苦痛を感じたことがなかった。嫌なことはけっこうすぐに忘れてしまうから、もしかしたらただ忘れてしまっただけかもしれない。1人でいるときは本やマンガを読んだり、アニメを見たり、こうしてちょっとした文章を書くこともある。
一日中そういうことをしているとだんだんムズムズしてきて、ちょっくら外に出ようかという気分になってくる。行き先はその時々でころころ変わるが、大まかに分けて2つのパターン。1つは自宅近くをほんとにちょっくら周るか、あるいはあまり馴染みのない街に繰り出すか。
どちらも楽しいことに間違いはないのだけれど、いわゆる「楽しい」ということに関していうとやはり新しい発見の多い、馴染みのない街を出歩くほうのことを言うのだろう。
僕のように散歩が好きな人は世の中の大多数ではないけれど一定の規模を占めているようだ。なにせ歩くだけならタダだし、足さえあれば誰だってできる。なんてリーズナブルな趣味だろう。毎年のように値上げするディズニーランドでしか楽しめない女の子たちに教えてあげたい。まあ無視されるでしょうけどね。散歩好きがささやかに存在する証明に、散歩を扱ったマンガがいろいろいある。
たとえば、いがらしみきおさんの『今日を歩く』 。これは僕の2つのパターンでいうと1つめの自宅近くを歩きまわる方で、彼は毎日決まったコースを歩くのを20年間も続けているという。これぞ「プロ サンパー」だ。(どなたか、散歩をする人の呼び方を教えてください。) 毎日毎日同じコースを歩いていると、その土地の小さな変化に気づけるし、いつも会う人なんかも出てくる。
作中にはちょっと不気味な「テクルさん」(作者命名)という年齢不詳の女性が登場する。いつも長靴にしか見えないような靴を履き、テクテク歩いているからテクルさん。なるほど。幼児が車をブーブーと呼ぶ原則と同じだ。このような作者の主観的な散歩中の観察結果を扱っているので、『ワンピース』のように毎週のように派手なバトルは起きないし、『ニセコイ』のように毎週女子が主人公に対してときめくシーンもない。ただおじさんが歩いているだけなのでそういう派手な展開は期待しないほうがいい。
おじさんが歩くマンガというと『孤独のグルメ』で一躍有名になった久住昌之さん、谷口ジローさんのコンビで描いた『散歩もの』 というのもある。以前このブログでも紹介したのだが、これまたいい感じに地味なんです。一応フィクションとして主人公が品川など実在する街を歩いて、目についたあらゆるものにいちいち郷愁を感じているものだから、読んでいるこっちまでなんだか懐かしいような気がしてくる。全然行ったこともない街なのに不思議なものだ。
物語を使って街を宣伝するというのは良い手法だなあと感じたマンガがある。マキヒロチさんの『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』 という作品だ。(なんだか高知に住む誰かと似たタイトルの煽り臭がするのは気のせいだろうか。)
『今日を歩く』 や『散歩もの』 はあくまで散歩がテーマなので街を歩いた主観的な印象が語られているが、『吉祥寺〜』 は散歩ではなく不動産屋の話だから主人公の感想を追体験して楽しむものではなく、あたかも物件を探しているときのようにその街の概要、みんなが知らない裏情報なんかを知って得した気分になれる。
たとえば雑司が谷には地域密着型の古書店があって、「雑司ヶ谷霊園に眠る人々コーナー」なるものがあるらしい。雑司ヶ谷霊園にお墓のある夏目漱石、永井荷風、小泉八雲の関連書籍を揃っている。小説好きにはたまらないスポットだ。
一見不気味で、だらしない、太った2人の不動産屋が、親身になってこうした穴場情報を客に合わせて紹介してくれるのだから紹介している街に好感を持たないわけがない。やはりギャップの持つ力は偉大である。
引っ越したいと思っていなくても、東京の街について新しい発見がこうして得られればちょっと足を運んでみたくなる。もしかしたらこのマンガを読んで好きな街を見つけて「思わず引っ越しちゃいましたー」なんて人が出てくるのではと予想しています。案外人はささいな情報をもとに大きな決断をするものですから。
アウトプットの雨に打たれろ『浦沢直樹展』
本題の前にちょっとマジメなことから入ります。
プロと素人の差は以前として残っている
インターネットで自由に作品を発表できるようになって、プロと素人の差について語られるとこが多くなりました。黎明期には両者の差がなくなってプロが食えなくなる、なんて声も聞いたけれどどうだろう。僕が見る限り、プロは以前としてプロでいるし素人は以前として素人のまま。
この2つを分かつのはなんだろうか。自分の中でひとつとても大きな要素としてあると思っているのが「覚悟」があるかということです。
アーティストは、社会のヒエラルキーの中では最下層に位置する存在である。その自覚がなければ、この世界ではやっていけない
この業界では、二十四時間寝られないといった状況は苦しみのうちにも入りません。(『想像力なき日本』)
なんてことカイカイキキの村上隆さんは言っているわけですが、やっぱり人に認められるようなものを創造する立場にいるプロはこれぐらいの覚悟がなければやっていけないのでしょう。文章を読むのも書くのも比較的好きな僕は小さくプロを望みつつも素人の座に甘んじています。
そんな僕が思わず感化されてしまった展示会があります。観覧後には「自分もすぐに書かなければならない。書き続けなければならない」と焦りました。
『浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる』に行ってきた
その展示会というのは2016年1月16日から開催されている『浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる』です。
この展示会はタイトルの通り、浦沢直樹さんが描いて描いて描きまくってきたインクの軌跡が見られるようになっています。会場内が写真禁止だったのがおしい。(一部撮影ポイントあり)ほんとに圧倒されました。
浦沢さんはこの展示会についてこのように語っています。
漫画っていうのは、本来どのくらいの大きさの原稿に、どのくらいの密度で描かれ、みなさんがよんでいる単行本は、実はこれだけの物量の原稿でできているんだよっていうことを見せたいんです。体感として味わってもらって、漫画のすごみを感じてほしい (『漫画BRUTUS』)
展示内容は大きくわけて2つの軌跡が感じられる構成になっています。
1. マンガが出版されるまでの軌跡
ひとつはマンガが出版されるまでの軌跡。会場に入場するとまず展示されているのは『BILLY BAT』の1話の原画。続いて壁に貼られていたのは、現在出版されている人気作品5作品程度の単行本1冊分の原画たち。ずらーっと並んだ紙の列は圧巻です。
浦沢さんが描いている紙のサイズはB4。読者が読んでいる単行本はその4分の1なので、この大きさの差にも圧倒されます。
加えて印刷用にスキャンすると消えてしまうホワイト(修正液)の跡や薄いペンで書かれたアシスタントへ指示なんかも詳細に見て取れます。5秒で通りすぎてしまう1ページにマンガ家の方々はこんなにも労力を割いているか。もっときちんと見ないとダメだと反省しました。
(展示会内唯一の撮影スポット)
2. マンガ家・浦沢直樹の軌跡
もうひとつの軌跡は、浦沢さんがいまの地位を確立するまでの軌跡です。単行本の展示の後に飾られているのは、幼少期に浦沢さんが描いたマンガの数々。
小学校のときに描いたという『トップ』というマンガはすでに絵が下手な僕の画力を圧倒していたし、高校で芥川龍之介の『羅生門』や星新一の『来訪者』をマンガ化しています。『巨人の星』のような絵のマンガを描いていたり、鳥山明さんのような絵、「サイボーグ009」のようなマンガ、と有名どころの絵を真似してひたすらに描いていた様子も伺えます。
また、思わず笑ってしまった展示もありました。小学校入学時に描いた絵に添えられた説明には「みんなのレベルに合わせて下手に描いた」とか、「先生に絶対無理と言われたから意地でも木の絵本を作った」少しひねくれていたんですかね。
振り返ってみると展示会全体を通して訴えかけられたのは、圧倒的なアウトプットの量。
デビューから33年間、一度も連載を休んでいない。休んでしまったら、この大変な毎日に、二度と戻りたくなくなるから (『美術手帖』2016年2月)
と語る浦沢さんのアウトプットへの執着心が体感できます。何かしらつくることに興味があるのなら、この展示会に行って圧倒的なアウトプットの雨に打たれた方がいい。その日から行動が変わってしまうから。